「ボストン美術館 ミレー展―傑作の数々と画家の真実」@三菱一号館美術館

丸の内2丁目の《三菱一号館美術館》で今月17日から始まっている、ミレー生誕200周年記念「ボストン美術館 ミレー展 傑作の数々と画家の真実」特別内覧会に参加(10月23日)
「落ち穂拾い」「種をまく人」「晩鐘」などで知られるジャン=フランソワ・ミレー。米国《ボストン美術館》が所蔵する"3大ミレー作品"を含む、同時代の画家の作品64点が来日。いわゆる"農民画家"というイメージが一般的なミレーだが、展覧会タイトルが暗示する通り、その実態ははたして・・・? という企画展。

以下、前置きが長くなる。
此処は10年ほど前まで三菱商事の本社があったところ。三菱地所の丸の内再開発に伴い、高層のオフィス+商業棟《丸の内パークビルディング》と、スクエアを挟んだコーナーに《三菱一号館美術館》が建てられ、2009年9月に「丸の内ブリックスクエア」としてオープンしている(美術館のオープンは翌年)
さらに歴史を遡れば、ジョサイア・コンドルが設計した赤煉瓦《三菱一号館》が建っていた(明治27/1894年竣工)。"一丁倫敦"と呼ばれた赤煉瓦街も、時の流れの中で失われ、《三菱一号館》も1968年(昭和43)に姿を消す。
解体前の姿をかろうじてカメラにおさめていた写真家の増田彰久氏や、建築史家の鈴木博之先生(当時東京大学大学院教授)、三菱地所関係者らが登壇したシンポジウム(2009年5月開催 aacaシンポジウム「よみがえる三菱一号館」)を聴講したことがあるが、当時は建物ーー特にオフィスビルは、古くなれば壊して建て替えるのが当たり前で、保存も何も無い風潮だったとのこと。
限られた資料、工事中に地中から発掘された遺構などを元に、往時の姿を現代によみがえらせるべく、屋根のスレートや棟飾りに至るまで"復元"させる作業は苦難の連続で、増田氏のネガにはモノクロでしか写っていない赤煉瓦の再現のため、全国に現存する類似の建物を徹底調査した。その上で土を探し、昔の工法(型枠成型)が未だ残っている中国で焼き上げられ、60人の職人が積み上げた煉瓦は約230万個。2009年4月に竣工、展示室の乾燥など準備期間を経て、翌年の2010年4月に《三菱一号館美術館》は開館を迎えた。

主な参照元:
三菱一号館竣工記念「 一丁倫敦と丸の内スタイル展」(2009年9月-2010年1月)
竹中工務店「 三菱一号館の復元


34階建ての超高層を背にした姿に賛否もあろうが、この隅石は何処の産だろかと思いを馳せ、復元に尽力した関係者に敬意を表しつつ、スクエアに面したエントランスより美術館に入る。コインロッカーに荷を預け、EVで3Fの会場入口へ。
ピカピカの廊下、廊下の途中の半円アーチ、凝った造作の天井や、時代を感じる照明器具などをつぶさに見て、ミレー展に到達する前から時間をくう。
なお、通常は館内撮影禁止(「今回は特別な撮影・WEB掲載許可を内覧会主催者より得ています)
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)。フランス・ノルマンディー地方生まれ、生家は格式のある農家であり、幼い頃にラテン語を習うなど、ある程度は裕福な家庭で育った。
同時代の作家としては、2才年上のテオドール・ルソー(1812-1867)が名高く、ミレーとは親交も深かった。
会場は3Fと2Fに分かれ、展示室はI〜Vの計5つの章立てになっている。

展示室I:巨匠ミレー序章
右から、1840-41年頃制作の「自画像」、「グリュシーのミレーの生家」、ミレーの妻「J.-F.ミレー夫人」、全てミレーの筆。

展示室II:フォンテーヌブローの森
会場の構成として、ギュスターヴ・クールベ「森の小川」(但し、出展作品はバルビゾンの情景ではない)や、ジャン=バティスト・カミーユ・コローも題材に選び、ミレー、ルソーらがこぞってアトリエを構えた村ーー彼等の総称:バルビゾン派の画家たちが描いた"フォンテーヌブローの森"を抜けると、本展のフライヤーなどで使われている「種をまく人」がある展示室III:バルビゾン村に辿り着く。
展示室III:バルビゾン村
ジャン=フランソワ・ミレー「種をまく人」(1850年)をはじめ、上の画には写っていないが、「刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」 (1850-53年)、「羊飼いの娘」(1870-73年頃)など、本展主催のひとつであり、作品提供元の《ボストン美術館》の"3大ミレー"と呼ばれる作品が一堂に展示されている。

《ボストン美術館》は最大期には230、現在は約170点のミレー作品を所蔵している。フランスよりも多いのは何故か? 今回の特別内覧会では、髙橋明也三菱一号館美術館館長、数々の著作で知られる同館学芸員の安井裕雄氏、そして「弐代目・青い日記帳」主宰のTak氏によるギャラリートークが開催され、その問いに答えてくれた。以下は要約。

ーーボストン出身の画商であり自身画家でもあったウィリアム・モリス・ハントは、ミレーが不遇の時代を支えた。バルビゾン村にも居を構え、ミレーをはじめ周辺の画家たちと交流を深めた。ハントはボストンの富裕層市民に作品購入を薦め、彼等がミレーのコレクターになった。1876年7月に《ボストン美術館》が開館した後は、市民が私蔵作品を寄贈し、かくして今日でも世界最大級のミレー・コレクションを誇る。同美術館の底の厚さが知れる企画展ーーとのこと。
また、ミレーをはじめ印象派以前の画家たちは、屋外での入念なスケッチを基に、屋内のアトリエにおいてじっくりと作品を仕上げたそうな。

それらを頭にメモして、会場2周め。


2F、3Fのフロアマップ。《三菱一号館美術館》はL字のかたち。複雑そうに見えるが、実際はそうでもない。

展示室IV:家庭の情景
「家庭の情景」展示は下階の2Fにも続くが、ミレーは農作業風景ばかりを描いた訳ではない、ということが判るレイアウト。所々で同時代の作家による作品が混じる。
学芸員豆知識情報:会場の何処かに、母子の情景をミレーが描いた「編物のお稽古」が2枚並んでいる。主題もタイトルも同じだが、描かれた年代が違い、絵の細部も異なっている。そこを注意して見るべし。

階段で3Fから2Fに下りる。
惚れ惚れする意匠の鋳鉄階段。何処ぞの"お屋敷"に紛れ込んだようなトリップ感覚。

2Fに着いてすぐ、小さな展示室「ミレー、日本とルドン」。
欧州留学時にミレー作品を見た、間接的に影響を受けたであろう明治の日本人画家らの作品。
右側:黒田清輝「摘草」(1891)三菱一号館美術館寄託
左奥の別室に掛けられた作品:オディロン・ルドン「グラン・ブーケ」三菱一号館美術館蔵

なお、画面中央・「摘草」の左側の作品、浅井忠「花畠」は、AGC旭硝子の「超低反射ガラス」が使われている。いや、それ以前に、磨き込まれた床の美しさよ。京都の実相院を彷彿とさせる、というのは言い過ぎか。

展示室IV:家庭の情景(3Fから続く展示)
上の画に写っている2点は共にミレーの筆ではない。
レオン=オーギュスタン・レルミット「謙虚な友(エマオの晩餐)」(1892年)
同「小麦畑(昼の休息)」(1886年)
レルミットはミレーから遅れること30年後の1844年生まれ、1925没。上野の《国立西洋美術館》が、レルミット画による「落ち穂拾い」を収蔵している。

最後の展示室V:ミレーの遺産
上の画は3点ともミレーの作品。
左:「木陰に座る羊飼いの娘」(1872)
中央:「縫物のお稽古」(1874年頃)は未完であり、制作過程が窺い知れる作品。画面の奥に描かれた人物の一人はミレーの自画像といわれる。
画面右:「ソバの収穫、夏」(1868-71)

ギャラリートークの際、様々な検証の結果として、Y学芸員は「種をまく人」はソバの種を撒いているのではないか、と自説をとなえていた。その"ソバ"を冠する作品が、本展のラストを飾る。

ミレー生誕200周年記念「ボストン美術館 ミレー展 傑作の数々と画家の真実」の会期は来年1月12日まで。開館時間、休館日、入館料など詳細は、美術館公式サイトを参照のこと。

なお、次々回の展覧会は、コンドルの絵の師匠である河鍋暁斎! 三菱一号館美術館開館5周年記念として「画鬼・暁斎 ―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」(2015年6月27日-9月6日)の予定。待ち遠しい。

三菱一号館美術館
http://mimt.jp



以下の画像4点は、2F展示室退室後、階段で1Fに下り、出口までのルート。

+飲食のメモ。
内覧会終了時には既に、鑑賞券なしで利用できる館内ミュージアムショップ「Store 1894」はもちろん、館内1Fにある入場無料の「三菱一号館歴史資料室」もクローズ。

ミュージアムカフェ「Café 1894」は23時までの営業(L.Oは22時)。レギュラーメニューのほかに、展覧会ごとにタイアップメニューも用意している(ランチおよびティータイムのみ)。ディナータイムでも、ノン・アルコールや料理以外のオーダーも可。

昔は銀行の営業室だったところ。それにしてもライトアップが赤とはいかに。
待ち合いスペースの床。どこを撮っても絵になる。
利用時は木曜の夜、予約客を中心に大盛況の店内。スツール席でいただく「ジンジャーエール」は、ロケーション込みの価格設定といったところか。
ごちそうさまでした。

Café 1894
http://mimt.jp/cafe1894/