都内最古の木造銭湯《月の湯》見学会

銭湯《月の湯》は、昭和2年(1927)に建てられた後、昭和8年に引き家により現住所に移り、先の大戦の空襲にも耐えて、営業を続けてきた。だが、設備や建物の老朽化、寄せる時代の波など諸事情には抗えず、通算88年におよぶ歴史に幕を閉じたのは先月31日のこと。

廃業に先立ち、文京建築界ユース主催で見学会と入浴会が開催され、さらに"おまけ"として、この日限りの「"東京最古の木造銭湯"月の湯 最後の見学会」が追加された。
本文は主に、会場配布資料と現地での伝聞に拠る。


釘を1本も使わない継手・仕口による伝統工法で建てられているという《月の湯》。屋根は本瓦葺き、入口正面に唐破風に三角千鳥破風がみられる。同時期に建てられた木造銭湯が「宮造り建築」と称されるゆえんであろう。
見学会当日の《月の湯》の外側には足場が組まれ、幌で覆われた三角千鳥破風を見ることはできなかった。4年前の震災でダメージを受けたらしい。
関東大震災後の昭和初期、東京の下町を中心に相次いで建てられたという"宮造り銭湯"。江戸東京博物館が1995年に発行した『江戸東京たてもの園物語』ほかに拠れば、一般家庭に浴室が浸透する以前は、風呂炊き人工は激務なれども、経営者の羽振りはどこもかなり良かったという。さて、今日どれだけの数が現存し、かつ現役で営業しているのやら。今度は資料や博物館の屋外展示子宝湯などでしかお目にかかれなくなるのは間違いない。
ひっきりなしに見学者が出入りしていた《月の湯》の出入口。両側に休憩用ベンチを従えて。
幾多の老若男女がくぐったであろう暖簾は、左から右に月の満ち欠けが描かれている。
靴脱ぎ場のタイル。向かって左が女湯、右が男湯。正面は傘入れ(後述)
ある一定の世代以上の男性にとって、倍率が高かった靴箱「3番」。
靴脱ぎ場の天井からして豪華。明かり取りのガラスの仕様、中央の欄間の造作も凝っている。
模様付き不透明硝子の見上げ。男女とも堂々たる書体である。
女湯から見た番台。雲形の袖壁は"目隠し"のための意匠。要所に使い込まれたレトロな仕様が残る《月の湯》は、CMや映画の撮影にも多々使われたとのこと。そのワンシーン("いい湯だな"的な堤真一)の画が貼られていた。
番台前の扉を自由に通り抜けできるのは、小さい子どもにのみ赦された特権。または今回のような見学会ならでは。男湯に設けられた受付で見学料200円を支払い、手の甲に「月」マークを捺印してもらう。
男湯の脱衣所から、折り上げ格天井の見上げ。天井高は5.1mもある。300角の柱と大梁で、奥行き6m以上の大スパンをもたせている(配布資料より)。男湯と女湯の境には大きなボンボン時計。
男女の脱衣所を仕切る壁には、大鏡が貼られているのが定番。その上に広告掲示板が設けられているのも懐かしい。
男湯の脱衣所から、亀甲タイルが張られた洗い場の見通し。
銭湯といえば、やはり富士山。ペンキ絵師の早川利光氏(1936-2009)の手による、平成19年(2007)の作「音止めの滝」。以前は2年に一度の頻度で塗り替えていたそうな。雄大な冨士の裾野から湖に流れ込む滝という"引き"の画から、はめ込み式の広告スペースを挟んで、一気にタイル画の滝つぼにズームするレイアウト(何故に鯉?かと思えば、"お客様、コイコイ"のシャレらしい。製作は九谷焼きの鈴栄堂、陶工は石田彰仙こと石田庄太郎氏/参考:町田忍著『銭湯遺産』2008 戎光祥出版)
広告主は、目白通りに停まった都バスの停留所から《月の湯》に向かう途中で目にした寿司屋と中華屋ほか。
裏手のボイラー室には初めて足を踏み入れた。扉の上に嵌った模様入り硝子も年季が入っている。
女湯の側から、洗い場の天井見上げ。男湯と女湯の間、壁の途中で先端が途切れている柱は飾りか? 江戸東京たてもの園の「子宝湯」でも目にした意匠。
女湯湯船の蛇口がゴツい。子どもの頃、熱い側の湯船に入れなくて水でうめると、ご隠居的なおばあちゃんに注意された苦い思い出が蘇る(こちらの《月の湯》には入ったことはナイ。そして、我が近所の銭湯も昨年廃業、跡地では低層マンションが建設中)
私が利用していた銭湯には、こんな可愛らしいオブジェはなかった。左のトリさんは首が欠けておりますけれども、男湯の湯船の縁には大蛙がどっしりと鎮座していた。
どちらの側の洗い場だったか、小さな男の子が「ここ、ボクのばしょ」と云いながら、吐水口の前に巣しゃがみこむ姿が微笑ましかった。
以下は個人的感想:あの頃、銭湯の中には子どもであっても守るべき暗然たるルールがあった。洗い場を走り回らない、大声を出さない、1人で幾つもの桶と椅子を専有しない、あがる時には使った洗い場をぬるま湯で流す(ウッカリ冷水を流すと叱られる)、ビショビショに濡れたまま脱衣所に戻らない等々。大きく逸脱すると、親はもちろん見知らぬ大人からも容赦なく叱られた。銭湯は"大人の社交場"というが、子どもにとっては、ちょっとした緊張を強いられる場であった。冬場の湯上がりは寒いし、見たいテレビが始まるまでに帰りたかった。だから、バスルーム付きのマンションに引っ越した時は正直、自分の部屋がもてたことよりも嬉しかった。
洗い場と脱衣所の境。洗い場側に敷かれたゴザを踏むと、足の裏がちくちくするのが苦手で、出入りする際にジャンプしていたが、ある時、着地に失敗してスッ転んだこともある。
後付けか、女湯の脱衣所の一角に、カーテンで仕切っていたと思われる小さなスペースがあった。一人で着替えたい人向けか、授乳用か、柱にドライヤーが掛かっていたのでそのためか。
上の画は、男湯の脱衣所の外に設けられた縁側。竹で編まれた長椅子が置かれ、頭上には紅白の提灯が下がる(何故か「右源太」と「左源太」とかかれた提灯)。 
縁側の庭は灯籠と狸の置物付き。
女湯の側と靴脱ぎ場を仕切る扉。ガラガラっと音をたてる引き戸ではなく、模様硝子が嵌った外開き扉。
靴脱ぎ場に戻ってきた時、空いていた靴箱を使えばよかったナと小さな後悔。
正面に据えられた扇形状のこちら、靴箱ではなく、なんと傘入れ。傘を立てるのではなく、真横に差し込むタイプ。
開けてみると、傘の先端が入る奥が細くなっていた。下の板は一枚ではなく四角い板が間隔を置いて敷かれている。この隙間から、傘についた水滴が滴り落ちて溜まらない仕組みらしい。つまり、入れた箱の下にあるヨソの人の傘が濡れる。既に濡れているのだから同じこと、といえばそれまでだが、利用者の心情として、上から順に埋まっていったのではなかろうか。
《月の湯》は今後どうなるのだろう。存続と保存を求める署名用紙が、脱衣所のベンチの上に置かれていた(主催:文京建築会ユース、協力:たてもの応援団/NPO法人文京歴史的建築の活用を考える会)
出入口のベンチ裏の壁に、《月の湯》店主とその家族からのメッセージが。
長い間、ご苦労さまでした。お疲れさまでした。



+飲食のメモ。
見学受付時に配布された「月の湯 解説」の裏面は、手書きによる「月の湯 周辺ざっくりMAP」。これを頼りに近所の飲食店へ(夕方のこの時間、もし営業日だったなら、JR目白駅近くの「かいじゅう屋」にも立ち寄るところ)

《月の湯》から目白通りに出て、信号を渡り、江戸川橋方面へ。そのまま下って行けば、右手に《ホテル椿山荘》、その向かいが丹下健三が設計したカトリックの《東京カテドラル関口教会》。行き着く手前、ウッカリ通り過ぎそうになった小さなお店「ママタルト」があった。
パイやタルトだけでなく、パンも売っていた。だが上記見学会が終わる17時頃は、棚に残る商品は数点ほど。ラス1だったオイルサーディン+チーズの総菜パンと、パイ3種をテイクアウト。
左から、レモンクリーム、チーズケーキ、イチゴのパイ(各消費税込み430円)。けっこうな大きさである(他店のノベルティプレートに載せてブツ撮りしてスミマセン)
パンもパイも、美味しゅうございました。ごちそうさまでした。

ママタルト(mamatarte)
http://kategraphix.blogspot.jp/